喜 哀楽の考え方

私(喜 哀楽)の考えていることを、できるだけわかりやすく書いていきます。

『学力』と『学ぶ力』について ~某県議と某県知事とで議論~

ネットニュースでみかけた『学力』か『学ぶ力』をめぐっての議論。

某県議の主張は『学力』で良い。他県との比較で低迷しているからとにかく『学力』を上げて欲しい。
某県知事は目先の『学力』だけを上げても『意味』がない、今後に生きる『学ぶ力』をと主張している。
言葉だけの問題だと思っている某県議、別のところに論点があるという某県知事、認識の齟齬ですね。

『学力』とは学んだ結果であるただの『知識』である。『学ぶ力』とは学び方であり、学力という知識を身につけるための『知恵』である。
『学力』と『学ぶ力』の違いが理解出来ない県議さん。『学力』と『学ぶ力』が異なるという概念という認識がない議員さんがあわれです。何故なら、言葉を理解せずに言いがかりをつけるのは、世間一般では恥ずかしいこととされているからです。しかもそれを有権者の代表としてされて全国に知れ渡ったわけですから。
違いをわかった上で、『学力』低下に切羽詰っていて『学力』向上で良いといわれているのであれば、『勉強』する本来の『意味』・『目的』がわかっていない方が選ばれているという悲しい話です。
『学力』と『学ぶ力』が違うという概念がない議員さんに理解してもらえる説明の出来ないのも、悲しい話です。
概念がない場合の話の仕方はこちら。

 

説明の上手な人と下手な人の違い ~概念がない?~ - 喜哀楽の考え方

 

概念がないことを理解してもらうのはかなり困難で、テクニックが要ります。
県知事さん側は説明すればわかってもらえると思われているようですが、概念がない場合説明してもほとんどが無駄に終わります。概念がないため理解しようがないのです。同じレベルで議論しても結論は出ません。
私が説明するのであれば、たとえ話を活用します。

『学力』と『学ぶ力』。
『学力』は『知識』を、『学ぶ力』は『学力』を得る『知恵』のことです。
言い換えれば、『学力』は食料、『学ぶ力』は食料を得る『知恵』のことです。
食べるものがない人たちへの支援をする場合。将来にわたり食べるものが不足することが予想される状態を想像してみてください。
  • 食料を手に入れることが良いか。
     食料自体の支援を受ける
  • 食料を得る『知恵』や手段を手に入れることが良いか?
     農業の方法や漁業の方法の伝授やその道具の支援

食料は食べてしまえば終わりです。食べてしまっても、その都度食料を餌付けのように継続的に永久に支援してくれるならいいでしょう。支援を受ける側は何も考える必要がありません。支援する側にとっては自らに依存させることができますし、食料を盾に支援する側の要求を突きつけるには良いでしょう。
食料を得る『知恵』や手段を身につけることができれば、食料を自分で確保できるようになります。自立できるようになるということです。食料を支給してもらうわけではないので、食料支援に依存しなくてすみます。
『学力』と『学ぶ力』に話を置き換えると、自分で『学力』を身につけることのできる『学ぶ力』を身につけられては賢くなってしまって支配できないから、あえて『学ぶ力』を身につけさせず『学力』で良いと言っているのかもしれません。

これでもわかってもらえなければ仕方がありません。
『学ぶ力』を『学び方』に変えて改めて説明しまいましょう。
そうすれば取り違える人はいなくなるでしょう。
回りくどい例えなど使わず、最初から『学び方』を学ぶということです。と一言で言うのも選択枝の一つですね。

確かMIT(マサチューセッツ工科大学)では、学校で最先端の『知識』を学んでもすぐに科学技術が進歩し最先端ではなくなってしまう。在学中に学んだことが、卒業して『意味』がなくなるなら最先端の科学技術を学んでも『意味』がない。それならば卒業して『勉強』しないであろうリベラルアーツ(日本語で言えば一般教養みたいなもの)を在学中には身につけてもらおうというコンセプトのようです。(出典はMITは『理系バカ』が役立たないと知っている。)


科学技術が日々進歩している世の中で、国語・算数・理科・社会・英語を学校教育に求められているのは社会に出て役立つ自らが『学ぶ力』、『学び方』ではないでしょうか?
学校が『学力』をつける場ではなく、『学ぶ力』をつける場に早くなることを祈っています。