喜 哀楽の考え方

私(喜 哀楽)の考えていることを、できるだけわかりやすく書いていきます。

論理・理屈は伝えられるが感情は伝えられない

論理・理屈は言葉によって伝えることができますが、感情を伝えることはできません。

嬉しい悲しい怒りを伝えることはできても、人それぞれ感じ方が違うのでどの程度の感じ方かを伝えることは不可能だと思います。どの感情かは何とか伝えられたとしてもどのように感じているかを伝えるのは非常に困難です。

 

また感情は湧き出すものではなく『目的』があって利用するとは、私の好きな心理学者の至言です。

  • 悲しみを表し、同情をひいて自分の意見を通すという『目的』
  • 悲しみを表し、こんな悲しい思いをさせていると暗に責める『目的』
  • 怒りを表し、周囲を萎縮させて自分の意見を通すという『目的』
  • 怒りを表し、自分の優位性を周囲に認めさせる『目的』
  • 愛着を表して、より多くの補償を引き出そうという『目的』

感情の奥には必ず『目的』があるとの考えです。
私も『目的』があって人は感情を使っているとの考えが正しいと思います。


人に伝えることのできる論理・理屈と人に伝えることのできない感情を混同している人が多いと私は思います。また一部の人はこの違いをわかっていて、あえて自分の意見をごり押しするために感情を利用している場合も見受けられます。

 

論理・理屈は同じ前提・条件に基づけば、それこそ理論上は同じ結論に行き着くことができます。少なくとも同じ結論に近づくことができます。(同じ結論に近づけない場合、誰かの私利私欲や何らかの都合でやりたくない感情が紛れ込んでいることが多いです)
しかし感情は人それぞれ違うので、同じ結論に行き着くことは到底不可能です。場合によっては結論に近づくことすらできません。

この論理・理屈と感情の二つを分けずに議論をするから議論が迷走することになりますし、永遠に結論はでません。何故なら感情は他人には理解できないから。特に議論で不利になった側が感情を持ち出して、泥仕合に持ち込むのを見て、最初から結論を出す気がないんだと呆れることがあります。

 

論理・理屈と感情を区別せずに議論するなんて無駄なことをしていませんか?