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喜 哀楽の考え方

私(喜 哀楽)の考えていることを、できるだけわかりやすく書いていきます。

求められる能力の変質 ~求められる『記憶』の質が変わりつつある~

昔のある国の公務員試験『科挙』はかなり難しく、記憶力が問われる試験だったそうです。
特に受験資格というのはなかったそうですが、記憶量が半端な量ではないため働かずに何年も『勉強』だけすれば良い環境になければ合格は困難だったそうです。実質的には『勉強』に専念できる富裕層にしか合格できなかったそうです。ちなみに漢字は支配階級が『知恵』を独占するため暗号のように習得が難しい文字だったようです。みんなで『知恵』を共有して便利に使うため、日本では平仮名・カタカナが発明され、独自の発展を遂げています。江戸時代において識字率が高かった理由の一つです。
科挙の『目的』は書物を暗記し、決まりや慣わしを即座に答えられる能力を測ることでした。書物を調べていては莫大な時間がかかるため、一度暗記して即座に取り出すことのできる必要があったのです。
当時は役人が忘れたり覚え間違いしている場合だけ書物で確認すれば良いので、役人の『記憶』に頼るのが最も合理的な方法でした。一番重宝されたのが記憶力抜群の人というわけです。
その後も優れた検索システムである記憶力に優れた人は重用されました。『記憶』を活用する検索システムに長年ライバルはいませんでしたが、突然その検索システムの優位性を失います。突然出現したライバルはコンピュータやタブレットなど電子機器による検索システムです。
物事を頭に詰め込んで検索していた時代から、誰かが入力してくれた『知恵』を簡単に検索できる時代になりました。
画期的なのは、記憶として詰め込む暗記という作業がいらなくなったことです。しかも『知恵』を共有することができます。デジタルデータとして全く同じものがコピーできますし、インターネットに繋がっていればコピーすら必要のない環境が整っています。

こうなると『記憶』の価値はなくなったかのように思えます。
実は求められる能力が変わってきたのです。具体的な内容は『記憶』媒体の助けを借りて、誰でも議論できるようになりました。
これから求められる能力は、今のところ機械にできない

『記憶』の中から抽象的に物事を捉える能力

だと私は思います。抽象的な内容だけ覚えて、詳細は必要なときに『記憶』媒体から取り出すようになると思います。
そろそろ暗記力を問う学校の試験は見直す時期にきていると私は思います。