喜 哀楽の考え方

私(喜 哀楽)の考えていることを、できるだけわかりやすく書いていきます。

感情の話でふと思う

議員の問題で話題になっている感情論ですが、私は無駄な話だと思います。
何故なら以前書きましたが、論理・理屈は伝えることはできますが感情は伝えることは困難です。自分はどう思うか感情論をぶつけたところで、ふうんそうなんだという感想がかえってくるだけです。その人の生い立ちや現時点の立場など、全く同じ人間でなければ感情を正確に共有することなど不可能だからです。不可能に近い感情の伝達を短い言葉のやりとりで行うことも不可能だと考える方が無難です。
他人に感情を伝えることが困難であることが理解できていない人は、何故わかってくれないの!?と駄々っ子のように更に感情をぶつけてくるので周囲の人達が混乱してしまいます。感情をぶつけられた方が、感情をわかってあげられない自分が悪いの?と考えて混乱するのです。
そもそも人の感じ方は様々で、その感情を理解できると考えることに無理があるのです。

対策を考えてみます。
まず同じ感情を共有できないことがあることをお互いが理解することです。
同じ出来事を見て怒りを感じる人もいれば、悲しみを感じる人もいます。自分の感じ方である感情をコントロールすることですら困難なのに、人の感情をコントロールすることなどほぼ不可能です。そのことをまず理解することです。
その上で、相手がどう感じているかを受け取ることはできると思います。同じ感情を抱くことができるかどうかは別問題です。相手の感情は受け入れるのです。そのように感情をいだくのかという感想のようなもので良いと思います。相手の感情の理解が困難だとわかると、次にどのような視点から、そのように感じるのかを聞いてみるのです。もしかしたら自分の見落としている視点から見ると、同じような感情に到達できるかもしれません。
相手にも自分の視点からみた感情を伝えてみます。相手にも自分の視点からみると違う感情に繋がるきっかけがあるかもしれません。
ただし多くの感情は相容れず分かり合えないままです。勘違いして人は必ず同じ感情に行き着き、分かり合えるはずだと思い込むのは大きな落とし穴に落ちてしまいます。

そのため対策としては人同士の感じ方は様々で、その結果表れる感情も様々でお互い理解できないものだから議論の際には切り離して考えるべきです。
論理・理屈での話あいには『意味』がありますが、感情を持ち込むと混乱するだけです。

議論には感情は切り離すことが大切

だと思います。人それぞれ違う尺度の感情を同次元で話合うのは無理があります。

物体を体積・重さ・長さ・色・形などばらばらな尺度で議論しようとするようなものです。議論するあるいは比べるには同じ尺度が必要です。そのため尺度のない感情は議論や比べることはできないため、切り離すしかないのです。


議論に感情を持ち込んでわざと混乱させる輩がいることも悲しいことですが、感情に振り回される議論が未だあることも残念なことです。