喜 哀楽の考え方

私(喜 哀楽)の考えていることを、できるだけわかりやすく書いていきます。

怒る必要のない子育て

これまで怒らない子育てと銘打っていましたが、放置して怒らないという子育て方法との区別が必要だと痛感して書き方を変更しました。
怒る必要のない子育てです。

怒る本来の『目的』は、相手の思い至らないところ・相手の知らないことを教えてあげることです。
怒られるほど至らないことを伝えるために怒るという人もいるようです。ただ単に精神的に優位に立ちたい人がいるのが話をややこしくしてしまいます。俺は人に怒ることができるほど立派なのだと周囲にアピールすることも『目的』なのです(本人に自覚があるかどうかはわかりません)。怒っているとき・説教しているときに優越感に浸っているのです。その優越感に浸るために怒る人がいるのです。
そもそも相手の至らないところを教えてあげるために、怒る必要があるのでしょうか?
相手が知らないだけなのに、怒る必要があるのでしょうか?

異郷の地を訪れた際、その土地の風習を知らずにやったことをいきなり怒られても、戸惑うばかりではないでしょうか?
子供達はいきなり大人にとっての『常識』という異郷の地に足を踏み入れているのです。
大人も『常識』だからと言って子供も知っているはずと思い込んで、子供が知らないことをせめてしまうのです。子供が知らないのは誰のせいかを考えれば、『怒る』ことに矛盾があるのは明らかです。だから怒る必要がないのです。

よく聞くのが子供が言っても聞かないからついつい怒ってしまうということです。
子供に言っても聞かないのではなく、言っても『意味』がわかっていないから聞かないのです。
言葉をかえると『言ったとしても理解していない』のです。正確に伝わっていないのです。
ただそれだけのことです。

 

ki-airaku.hatenablog.com

 子供にとったらたまりません。わかるように教えてくれないのに、怒られるんですから。
子供の方が強ければ、わかるように教えてくれない親が悪いんでしょ?子供は何も知らないことを知らないの?自分も子供の時代があったんだから知っているでしょ?知らないことをきちんと子供に伝えないでおいて怒るってどういうこと?きちんと教えないでおいて知らないことを責めるのは、親は落とし穴があるのを知っているのに教えないくせに、知らずに落ちた子供を責めるようにしか思えない。親は落とし穴があることを当たり前だと思い込んでいると、子供にとっても当たり前だと勘違いしていて、落とし穴があることを伝えなくてもわかっていると思い込んでしまうのです。この場合『気をつけて歩きなさいよ』とは伝えても、親にとって当たり前の『落とし穴』というキーワードが抜け落ちているのです。当たり前の『常識』だからです。
しかし子供にとっては落とし穴自体を見たことがなければ、そもそも何に気をつけたら良いのかわかりません。つまづきそうな石や目に見えるくぼ地には気をつけることができても、隠されている落とし穴はその存在すら知らないのですから、気をつけようがありません。
その気をつけようがない落とし穴に子供が落ちたら、『ほら言ったじゃない!気をつけるように!』と。
ここで親は落とし穴があまりに当たり前なので省略していることすら気づきません。子供は落とし穴という存在そのものを知らないことを知らないのです。それなのに落ちたら気をつけていないと怒られたとしたらどうでしょうか?子供がかわいそうではないでしょうか?

このたとえ話のように実際に落とし穴に落ちるということはまず経験しないと思いますが、子供が全く知らないことを親にとってあまりに当たり前で説明を省略してしまって伝わったと勘違いして怒ってしまうということはよくあるようです。説明したことが子供に伝わったかどうかを確認せずに一方的に怒るのは私は大人げないと思います。

そういった一方的な勘違いを、誰も指摘しないから間違っていないはずだと勘違いして、更に親が暴走しているのです。
怒らないといって子育て放棄一歩手前の人たちまで現れるのは私には残念でなりません。

理解を確認するのは以下をご参照ください

 

ki-airaku.hatenablog.com